いまだ明けきらぬ東の空。12月の冷たい空気の中、能勢町田尻地区にある大きな炭焼き窯の前に、手拭い姿の男達が一人二人と集まってきました。今日は能勢の特産品である能勢菊炭の「初窯出し」の日。
伝統的様式にならった炭窯に原木が入れられたのはおよそ二週間前。空気や温度を調整しながらじっくりと蒸し焼きにされた能勢産クヌギは、表千家、裏千家、武者小路千家をはじめとして京都の名だたる茶道家元に愛用される「能勢菊炭」に生まれ変わります。
張り詰めた緊張感の中、窯の入り口を塞いでいた煉瓦を崩すところから作業は始まりました。煙が立ち昇る狭い入り口から最初に入るのは菊炭師・小谷 義隆さん。
小谷さんが中の様子を確かめながら、仕上がった菊炭をひとつひとつ窯の外に出していきます。
100度を超える蒸し風呂状態の窯を出たり入ったりしながらの過酷な作業で、体重は1回で2〜3キロ減ることもあるのだとか。
「けんけら!」「炉用!」「風炉用!」
炭の種類を呼び合いながら、窯から出された炭を丁寧に仕分けしていく若手職人たち。
入り口付近にあった炭は割れたり、欠けたりしていましたが、作業が進むにつれて質の高いものが姿を現すようになってきました。
樹皮が密着し固くしまっている。凛として風格を感じさせる佇まい。
ホームセンターなどで売られている炭とは全く異なるのは素人目にみても明らかです。
これこそが千利休が愛した「菊炭」。500年に渡って茶の湯文化を支えてきた影の主役です。
全身から湯気を立ち上らせ、顔を真っ黒にした男達が休むことなく動き続けること二時間あまり。
ようやく最後の一本が窯から運び出され、これにて終了……
と思いきや、休憩もそこそこに「原木入れ」の作業に取り掛かる職人の皆さん。
炭の品質を維持するためには窯の温度が下がりきらないうちに次回分を詰めていく必要があるのです。
ほこりが充満する暗くて狭い空間に、腰をかがめながら隙間なく原木を詰めていくのは、かなりの重労働。
それでも菊炭師・小谷さんとお弟子さんは疲れた様子も見せずに黙々と仕事を進めていきます。全ての工程が完了した頃にはすっかりお昼になっていました。
作業終了直後の小谷さんにお話を伺いました。
–本日はお疲れ様でした。小谷さんと若手の皆さんが一丸となって仕事されている姿に、茶の湯炭の品質を守り続ける気迫のようなものを感じ、圧倒されました。
父(故・小谷 安義氏)の取り組んでいた炭焼きを継承して18年になるのかな。はじめた頃は自分がつくるものが「本物かどうなのか」ってことに不安があったんですよ。父が作るものや父の同僚がつくるものはつぶさに見ていました。でも、それだけでは自分の中でおさまらなくて、炭について書かれた文献をいろいろと読み漁ったんです。特に岸本 定吉さんの書かれたものや浜口 隆さんの「茶のお炭の話」には詳しく炭のことが網羅されていて、しっかりとこの界隈のことを調べてた上で書かれています。そういう本を読んでどういう品質が良い炭なのか、自分なりに研鑽を重ねてきたつもりです。
いま、うちの炭は京都にある江戸時代から数えて8代目の炭屋に納めていますが、そこで「良し」と言ってもらえることが一つの判断材料。もし火鉢に入れて煙が出たり、爆ぜることがあったら商品として取り扱ってもらえません。長年に渡って老舗から信頼してもらっているということは、「本物かどうか」という問いに対する一つの答えになっていると思っています。
–能勢町田尻地区で生まれ育った小谷さんの幼少期の思い出を聞かせてください
そうですね。小学生のころ3時ぐらいに学校から帰ってきたら、稲刈りをした後の稲を干している稲木にカバンを置いて田んぼで遊んでいました。両親が作業をしている横で足をドロドロにして草や虫を見つけて遊んでいたような光景が思い浮かびますね。
炭焼きを始める前は能勢町役場の職員で、企画の部署に長くいたんですよ。まちづくりの基本として「能勢町の魅力は?」「他の町とは何が違うの?」っていうことをひたすら考えていました。
考えが行き着く先はやはり自然環境の豊かさ。子どもの時分に遊びながら、本当にいろんな動植物や昆虫がいることを肌で感じていたからなのかもしれないですね。
その当時「生物多様性」なんて言葉は無かったけど、能勢の豊富な資源を知っている人達が、この環境を守るためにすでに行動を起こしていました。例えば大阪みどりのトラスト協会が三草山のゼフィルスの森や地黄湿地の動植物や昆虫を保護するための活動を始めていましたね。
–安定した公務員の仕事を捨てて、炭焼きの世界に転身されたのは何故ですか?
役場にいた頃、まちの将来像を描く「総合計画」を担当することになりました。審議会の委員さんは大学の先生、企業の役員さんなどと、いろんな方々と計画をつくっていくんです。
その中で、「伝統産業の復興」を総合計画の項目に入れたんですね。でも、そのことに周囲の人達は「そんなもん誰がすんねん。これから消えていくもんをやったって経済的に成り立てへんし、誰がそれを必要としてんねん」と、消極的でした。
そう言われたことに対して、自分の中に大きな反骨心が生まれました。「なら、俺がやってやる…」って。
僕が素晴らしいと思って選んだ伝統産業の中に「炭」も入っていました。炭を入れた理由は、父がやってきた炭焼きが、広く世の中に出たらすごいものになるんじゃないかなと思ったから。
炭焼きを父ができなくなったら終わりかなと考えていた頃、大阪府から衰退した産業をボランティアの力で復興できないかと話があって、その一つに父がやってる製炭活動が取り上げられて、父が先生となって講座をしたんですね。
その講座には、各種団体のリーダーや、いろんな学者さんも来ていました。そんな人達が父の仕事を目の当たりにして『いいね、すごいね。これは続けなあかんね。』とザワザワしてる。役所の立場で見ていた僕にも『お父さんすごいね、小谷さんも何とかしなあかんね。』と言われて……。そういう感じで、外堀からどんどん埋まってしまいました(笑)
–その後、役場を早期退職して炭焼き師としてスタートされるわけですが、様々な困難にぶつかったそうですね
実際にこの仕事に飛び込んでみたら、原木となるクヌギを安定的に確保することが難しいことが分かりました。炭を焼くためのスタッフとか、機材にも思っていた以上に費用がかかる。始める前に計算していたつもりでも、やっぱり誤算がありましたね。
これではスタッフの費用を賄うこともなかなか厳しいなと思っていたら、大阪府が山の仕事の研修所にしませんかということで、林野庁が行っている「緑の雇用」という制度を紹介してくれました。要は、うちが山の仕事のノウハウを教えていくことが林業研修になるということで、支援を受けられる制度なんです。いま働いてくれているスタッフもそこからの紹介で、今一番長く残ってくれてます。他にも突然やってきて、炭焼きがしたいっていう若者がこれまで何人もいましたね。鹿児島大学で宇宙工学をやっていた子もいたなぁ。
その支援制度を受けて、少しずつ給料が払えるようになりながら、今に至ります。
その間も良い時や悪い時など、いろいろな波がありました。でも困ったなというときには必ず救世主があらわれるんですよ、不思議と……
あるとき建設会社から地面に埋める炭はないかという問い合わせがありました。昔から寺社仏閣には炭が埋まっていることがあって、施主がどうしても炭を入れたいと。それで、うちにあった近年在庫が積み上がっている「素灰」という炭を5~7tも一気に買ってくれました。年末に炭が売れなくて困っていたときだったので、そのときは本当に助かりました。
それ以外にも小さな奇跡みたいなことはよく起こっていますね。
ついこの前も、作業中あと10センチ15センチずれてたら大怪我というようなヒヤリとする場面があったり、原木が採れる山がないと困っていたら、ある人から「山あるけど?」という話が舞い込んできたり。
時々、自分は500年という歴史を持つ炭にただ操られているのかもしれないなって思うことがあります。恐るべし炭なんです。
500年の歴史を生き抜いてきた炭だから、これから先も生き抜こうとしてるわけですよ。僕はただ炭に使われてるだけの話です(笑)
–裏千家主催のイベントに講演者として登壇されたり、これまでも数多くのメディアから取材を受けてこられました。どのような点が高く評価されていると思われますか
うちの炭は京都の炭屋さん以外にも、直接お茶の先生に納めていることがあって、直々に感想を伺ったことがあります。ある先生からは「レスポンスがいい炭ですね」と言われました。自分がこうしたいなと思ったことに追随してくれる炭ということらしいんですね。
他に「空気が変わる炭」と言われたこともあります。池田炭(菊炭)は備長炭と違って、ガスを飛ばす焼き方をしません。ガス分が少し残っていて、それが特徴的な香りになっているんです。ガスが残りすぎると不完全燃焼、完全に飛ばしてしまうと茶席空間に漂う炭の趣きが無くなってしまう。香りとなるガスをどのくらい残すかは長年培われた経験によるもので、それが「空気が変わる炭」という評価につながっているのかな。
僕はこの世界に入ったときに、自分の作った炭は自分で責任を持つために商標登録をしようと思い、「能勢菊炭」という名前で商標を取りました。いろんな炭がある中で、最高級の品質を維持することに手間暇を集中して、緊張感を持ちながらこれまで積み重ねてきました。
それは、一緒に頑張ってくれてる仲間たちも同じだと思いますね。彼らもわかってくれていると思うから、日本の大切な文化を支えているって。
この世界へ飛び込んだときは、能勢町の貴重な炭という感覚でしたけど、途中から「日本の大切な炭」じゃないかなということに意識が変わってきたわけです。
–その意識の変化が近年取り組んでおられる能勢菊炭のグローバル展開へとつながるわけですね。
事のはじまりは6年ぐらい前、お茶の先生が海外へ行くから炭を送りたいってことで相談がありました。業者に確認したら危険物扱いで飛行機に乗せられないということが分かりました。それからいろいろ調べてみると、備長炭とパイン炭(廃棄されるパインを炭にしたもの)は飛行機に載せることができると分かりました。
「お茶の世界で大切な炭が、なぜ飛行機に乗らないんだ!」
そこでまた反骨心がムクムクと湧いてきたわけですね!!(笑)
そこから自分のネットワークを駆使して紹介された大阪府の部署に行ってみたのですが、大阪府ではちょっと動けませんとなってしまいました。もうこうなったら行けるところまで行こうと、うちの妻も巻き込んで、関連各所を全て回りました。危険物の是非を証明してくれる日本海事検定協会や国土交通省航空局を訪ねたり、何とか航空輸送を可能にするために奔走しました。その関連で、JAL CARGO(JALカーゴ)さんにも相談していたこともあって、オリンピック聖火リレー走者の推薦を受けて走ったというエピソードもあります。
そして、航空輸送は最終的に日本郵便のEMS(国際スピード郵便)で送れることになったんですよ。
2023年5月から運用がはじまって、うちの炭が空輸で届くことを知った裏千家ニューヨーク出張所から早速注文があり何回か送りました。その後、ニューヨーク出張所の方が北米150ヶ所くらいにメールで紹介をしてくれたおかげでノースカロライナ、ジョージア、西海岸ではロサンゼルス、サンディエゴ、シカゴ等の方々からの注文がありました。
今では、アメリカ東海岸と西海岸に広がりつつあって、昨日、一昨日はサンタモニカにも送っています。パリの先生からも注文が入るようになり、ベルギーやスイスにも送りました。ただ、ひとつ問題なのが関税。アメリカは関税がかからないけれど、EU加盟国は輸送費に加え、更に高額な関税がかかってしまう……結構な費用になってしまうんです。
まだまだ改善の余地はあるにせよ、海外で手に入らなかった炭が使えるようになったことで様々な可能性が広がったと思います。ニューヨークでは出張所創設以来過去50年間なかった正式なお茶事が出来ましたってすごく喜んでくれました。
–最後に故郷である能勢町に対する思いを聞かせてください。
能勢は慎重に事を運び、簡単には流行に左右されない風潮があります。だからこそ、変えずに続いてきたものがあると思います。今の時代に何が必要かということを考えたら、周回遅れかもしれないけれど、最先端になれる可能性を持っていると思います。
能勢にある資源を、能勢に住んでる者が理解し、それを生かしてその周りの人たちに楽しんでもらったり、重宝してもらえる能勢になってほしいですね。
合同会社能勢さとやま創造館代表、菊炭師。 1962年、大阪府能勢町生まれ。 父が取組んできた炭焼きの魅力に取りつかれ、能勢町役場を早期退職、平成18年に炭焼きの道へ入る。 炭焼きを含む「さとやま」という環境には日本人の知恵がたくさん詰まっている。 能勢さとやま創造館は、それらの知恵を現代に活かす方法を創造するとともに、それらを継承・発展させる活動を行っている。
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