どうも、能勢町地域おこし協力隊の高江直哉です。協力隊としての活動のことや能勢での日々の生活で感じたことを気まぐれに綴っていきます。よろしくお願いします。
「なんで能勢に来ようと思ったん?」
協力隊の仕事として町をまわっていると多くの方からこの質問を受けます。
うまく簡潔に理由が言えたらなと毎回思うのですが、この説明がすごく長くなってしまうんです。
私の経歴を話し、能勢町で地域おこしをしたいと思うに至るまでの経緯が長い!笑 。せっかちな人なら聞いてられへんやろなと思い、毎回ごめんなさいと思いながら話しています。
どうか聞いてやってください笑
能勢に来て以来毎日のように自分の経歴を話しているうちに、ふと私のこれまでの生い立ちを振り返るようになりました。
「こういう仕事をしてみたくなって」という動機ではない、もっと自分を突き動かす深い部分って何だろうと思い考えてみました。
今回は協力隊として能勢に来た理由ではなく、なんで能勢に住みたいと思ったのか、その部分をお話ししたいと思います。
幼少のころから、私の周りには常に身近に大きく世代の離れた大人がいたように思います。私は兵庫県尼崎市に生まれ、父方の祖母と両親、二人の弟の6人家族。祖母は昔から尼崎に住んでおり、地元の年配の人はだいたい祖母のことを知っていました。そして当時の尼崎は(平成生まれなので大して昔ではありません笑)まだ昭和の雰囲気が残っており、家にお風呂がない人も多く、親戚や知り合いが私の家のお風呂に入りに来ていました。
そんなこともあって、学校から帰ると家にはいろんな「おっちゃん」や「おばちゃん」がほぼ毎日いました。物心つくまで誰と血が繋がっていて、誰と繋がっていないのかもよくわかっていませんでしたし、気にもしていませんでした。「じゃりン子チエ」のような世界がまだそこにはあったように思います。近所に銭湯も多く、公園で野球をした後はその友達と銭湯に行くこともあり、この歳になって同世代にこう言った話をすると驚かれてしまい、逆に「他では違うのか?」と私が驚きました。
また、私には従兄弟がおらず、父方の祖母は一緒に暮らしているし、母方の祖父母も近くの池田市に住んでいたので、私や弟は自然と「おじいちゃん・おばあちゃん子」になっていました。池田の祖父母宅は大正期の家で戦前から住んでおり、尼崎とは違いますがこれまた昭和の雰囲気が残る町並みで、お盆と正月は必ず親戚が集まり、宴会を開いていました。今になって思えば、都会にいながら、地方にしか残っていないような家族の営みが我が家では残っていたのかもしれません。
しかし、年が経つにつれどんどん開発が進み、尼崎も池田もどんどん「平成のまち」へと変わっていきました。当時のおっちゃん・おばちゃんはどんどんお亡くなりになり、お盆の親戚の集まりでは、猪名川の花火を家の先から見るのが恒例でしたが、マンション開発で見えなくなって以降はなくなってしまいました。社会人になり、海外での生活を終え戻るとガラッと変わった町並み。数年ぶりに散歩しても懐かしいという思いがあまりなく、少し残念な気持ちになったのを覚えています。
尼崎の祖母も池田の祖父母も今も元気ですし、家も残っていますが、今でもどこかに「じいちゃん・ばあちゃん、おっちゃん・おばちゃん」がいたあの雰囲気と町並みを求めている気がします。そして、能勢でその感覚を思い出させてくれるときがときどきあります。実家や祖父母宅に行ってもだんだん感じなくなっていたあの懐かしい感覚。田舎と下町という異なる町並みなのに不思議と感じさせてくれるのです。町のご年配との会話、「これ、持って帰り」と渡してくれるおかず、文化や言葉遣いが近いということもあれど、能勢に来たとき、ずっと探していたものが見つかったような、そんな気分になりました。
おそらく私は、自分で作り上げたノスタルジアに突き動かされているのかもしれません。同年代の同郷で育った友人たちで私のような感情を持っている人は少ないでしょう。人情味あふれる年配の人たちに可愛がられるという子どもの頃の経験が、当時見ていた町並みを他人が見ていた以上に美化し、その頃を追い求めているし、その環境をつくろうとしながら能勢で暮らしている、そんな気がします。
「で、なんで能勢に来ようと思ったん?」
この質問に対する答えになってないですね笑
次回は毎回この質問への回答として話しているこの仕事を選んだ「理由」についてお話したいと思います。
うーん、だから「長い!」って思われるんでしょうね笑
(第二回に続く)
大学を卒業後、京都の高校で教師を務めた後、オーストラリアで日本語補助教員、JICAボランティアとしてブラジルで2年間貧困層の青少年に野球指導を行う。令和3年7月より能勢町地域おこし協力隊として活動、能勢なつかしさ推進協議会とともに「里山技塾」の運営に携わる。