どうも、高江です。 この春から栗だけでなく、野菜づくりも始めました。能勢に住むからには、農業のことは知っておかないと、町のオッチャン・オバチャンとは仲良くなれない!そして、地域おこし協力隊・里山技塾のスタッフとして何も知らないというわけにはいかない!という思いから、東郷地区で畑を借り、道の駅「くりの郷」や「けやきの里」にも出荷しています。 まだまだヘタクソな限りで、町の皆さんに日々いろいろ学ばせていただいています。 道の駅で僕のお野菜を見つけた際はどうか優しい目で見てあげてください。 そして、手に取り、レジを通し、ご家庭に持ち帰ってご賞味のうえ、味の批評をまたお聞かせください(=毎度おおきに!)笑
「で、なんで能勢に来ようと思ったん?」
もはや、この連載を読んでいただいている方も忘れてしまっておられるかもしれませんが、この質問に対する答えをお話しすることになっていましたね。じれったいぐらいに引っ張ってしまいました笑 ハードルあげてしまったかな…?
私は2018年〜2020年までJ I CA(国際協力機構)の海外協力隊として、ブラジルの『サルバドール』という街で野球指導をしていました。ブラジルには日系人がたくさん住んでおり、私も日系人の方々と一緒に活動をしていました(正式には日系社会にボランティア活動を行うというのがJ I C Aからのミッションです)。ブラジルだけでも200万人いると言われている日系人、総人口の1%にも満たない数ですが、ブラジル社会に大きく影響を与えており、文化・政治・経済のあらゆる方面で今のブラジルを形成する一部となっています。
サンパウロの街を歩くとかなりのアジア系の方(だいたい日系人)とすれ違いますが、そこは広いブラジル、私のいたサルバドールという街は日系人がほとんどおらず、道を歩いていてもほとんどがアフリカ系でアジア人の私が歩いているだけで珍しがられるほどでした。
そんな場所で私は非日系の貧困層の子どもたちに日系人の方とともに野球を教えていました。ブラジルでは、野球は日本文化として広まっており、サンパウロ州などでは競技人口はある程度あるものの、サルバドールでは全くでした。
日本や野球と縁もゆかりもなかった子どもたちに野球を教える日々。
しかし、いつしか子どもたちは野球だけでなく、徐々に日本文化や日本語にも興味を示すようになっていました。
子どもたちが日本文化に興味を持ち始めた一方で、日系人の少ないサルバドールでは日系人のコミュニティが高齢化し、徐々にそのメンバーが減っているという問題が起こっていました。時代が下るにつれて、日本語はもとより、日本文化にも興味がなく、日系社会の会合や寄り合いに顔を出さなくなっていく3世・4世の若い世代。やがて日系人コミュニティのある故郷を離れて暮らすことになります。
これはブラジルの日系人のいるところ各地で起こっているのですが、とりわけ日系人人口の少ないサルバドールでは、その問題は深刻でした。
ブラジル人でありながらも何とか日本人としてのアイデンティティを繋いでいこうと、盆踊りなどの年中行事を執り行うも、仕切り役の方々は1世・2世の高齢者が中心。何とか若い世代も残っているとはいえ参加者は少なく、運営をどうするか頭を抱えていたこともありました。ときどき形がブラジル風に変わっている部分もあるとはいえ、どこか昭和の雰囲気を漂わせている日系コミュニティ。盆踊りは浴衣を着て楽しみ、寄り合いでのBGMはだいたい演歌、運動会は綱引きやムカデ競争に一家で風呂敷を敷いてお弁当など、まさに昭和の日本がそのままタイムカプセルのように残されていました。
ご年配の方々は長年の苦労の末、何とかブラジルのもので日本の食べ物や道具を作り出し、次の世代に繋ごうとされています。
外国にいるはずなのに、日本にいるとき以上の「なつかしさ」みたいなものを僕は感じていました。
サルバドールの日系コミュニティの一員として関わり、「どっちが日本やっけ?」と不思議な感情になったのを覚えています。
1世の方々は日本の高度経済成長期を経験することなく、ブラジルへと渡っています。だからこそ、あの素朴だった時代の「日本」をそのまま保存し、「現在進行形の日本」とは違った時間軸を文化的には歩んでいるのかもしれません。
その一方で、昔ながらの「ムラ」意識も時折保存されているなと感じることもありました。少し前までは非日系のブラジル人を「ガイジン」と呼び、日系コミュニティに入ってくることを拒んでいたそうです。僕のいた地域ではそのようなことはありませんでしたが、今でも少しその傾向がある人が残っていると聞いたことがあります。しかし、そのようなことも言っていられないくらい日系人の若者の「日本離れ」は進んでおり、新しくコミュニティにやって来る人を拒んでなんていられない状況になったわけです。
活動を続けていくうち、野球教えていた非日系の子どもたちのなかにも、日本語を学びたい・日系の行事に参加したいという声が上がるようになりました。そこで、練習前に日本語の授業を行ったり、行事の手伝いに呼んだりと、日系人の方々と子どもたちが交流していくようになりました。
「いつか日本に行ってみたい」という子も現れるようになり、将来この子たちがこのコミュニティを引き継ぐ担い手の一人となってくれればと思いながら、僕は帰国しました。
サルバドールでは野球チームはもちろんのこと日本語学校、和太鼓団体など全ての活動で非日系人の割合が日系人の割合を上回っていました。
日系人コミュニティは今、自分達が繋いできたものを「誰に託すか」から「どうやって託すか」へと考え方が変わっていく過渡期にあるのだと思います。そして、サルバドールで過ごした2年間の活動から、日本の地方をすごく考えるようになりました。「日本の地方が抱える課題と似通っている。いや、ほぼ同じかも」と感じ、帰国後もまた、同じような課題に取り組みたいと思うようになりました。そこで、地方の地域事業に関わる仕事をしようと決めたわけです。
でもなぜ能勢にしたのか?
僕の実家は尼崎市、祖父母は池田市。他にも一人暮らしの高齢の親戚が関西に何人か住んでいます。今は元気とはいえ、いつかはやってくる親族の介護問題。しかし、僕には従兄弟がおらず、若い身内は二人の弟のみです(うち一人は埼玉県在住)。僕がもし実家から遠い地域で働くことになってしまうと、介護問題はほぼ両親に任せっきりになってしまいます。しかも80代後半以上が何人もいるため、これはなかなか厳しい!そんなことも考慮すると、自分のやりたいこととの両立を意識してあんまり遠くない地方がいいなと思っていました。
そこで、位置的にも自分のやりたいことのイメージ的にもぴったりだったのが、能勢でした。
はじめは地域おこし協力隊でなくてもいいから能勢で何かしたい!そんな気持ちでしたが、ちょうど能勢町で地域おこし協力隊の募集が出たことを聞き、今回の応募に至ったのです。
今、町の方々といっしょに運営させていただいている里山技塾。
能勢の農地や能勢にある「ワザ」を、「誰に託すか」から「どうやって託すか」をまさに体現させていただいているわけです。
まだまだ始まったばかりですが、やりたいことは山積みです。
これまでいろいろな国(言うてたかだか10カ国ぐらい笑)を見てきて、都会の人々の暮らしがどこの国でもほぼ同じで、面白さが感じられない印象があります。
立ち並ぶ高層マンション、オフィスで仕事、スーパーで買い物、コンクリートの建物…。
言葉や食べ物に違いはありますが、「生活感」が同じだし、景色もそこまで大差がなく、都会のビル群を見てもエキゾチックさは感じられません。ですが、やはり地方に行くと、まだ残る昔ながらの暮らしや行き交う人々の活気から旅の雰囲気を感じさせてくれます。
先日、ブラジルでお世話になった日系人の方々が来日したので、能勢を案内しました。1世の方もおられ、茅葺きの家を案内したときには子どもの頃の日本での生活を懐かしむものがいろいろあったようで、昔話に花が咲いていました。
多様性が謳われる時代である一方で、人々の暮らしの多様性は世界的に日々画一化していっているように感じる今日この頃(何を偉そうに言ってんねん笑)。
能勢に残る暮らしの多様性を僕たち移住者側も「どうやって託され、それを次に託すか」しっかり考えたいですね。
うーん。話が長い笑
大学を卒業後、京都の高校で教師を務め、オーストラリアで日本語補助教員、JICAボランティアとしてブラジルで2年間貧困層の青少年に野球指導を行う。令和3年7月より能勢町地域おこし協力隊として活動、能勢なつかしさ推進協議会とともに「里山技塾」の運営に携わる。